「最低」に込められた生存の重み、そして利己心が放ったブーメラン
1997年IMFの通貨危機以降、韓国の労働市場は「終身雇用」という安定した枠組みが完全に崩れ去った。
企業はコスト削減を掲げ、非正規雇用を急増させ2000年代初頭には賃金労働者の相当数が不安定な契約職へと転落した。
同じ工場で同じ仕事をしていても賃金は半分福利厚生は皆無という「同一労働・差別待遇」が日常化し、「細切れ契約」や偽装派遣は労働者を終わりの見えない不安へと追い込んだ。こうした歪んだ構造を正すため、当時の政府は2006年に「非正社員保護法」を導入した。
その核心は単純だった。
2年以上働いた非正社員を正社員に転換すること。
そして同じ仕事をしていれば差別しないことだった。これは「ワーキングプア(WORKING POOR)」固定化を食い止めるための最低限の歯止めであった。
しかし法施行直前の2009年この趣旨は事実上骨抜きにされる。
最も論争となったのは、勤務期間を2年から4年に延長しようとする試みだった。その過程で登場したのが「無期契約職」であり、これは公共機関を中心に拡散して正社員と非正社員の間に「第三の職群」を固定化させる結果となった。
同時に「公共機関先進化政策」のもとで定員削減と青年インターン制度の拡大、業務委託・アウトソーシングが進み、短期契約労働が公共部門にまで浸透した。
最近、ある公企業が雇用期間からわずか1日を差し引き、退職金の支給を回避したというニュースは我々の社会における「労働認識」がいかに無残な水準にあるかを示す象徴的な事件だ。
法の抜け穴を突くその巧妙さの背後には共に生きる同僚としての最小限の礼儀すら見当たらない。こうした近視眼的で冷淡な態度は社会を支える「最低賃金」をめぐる論議においてもそのまま露呈している。
『最低時給の「最低」は「最大」ではなく、「生存」の限界線である』
多くの人々は最低賃金を単に「雇う側が支払うコスト」としてのみ捉える。
しかしその本質はその名の通りだ。
労働によって人間が最低限の生活を維持し、社会構成員としての尊厳を守るための「生存の最低線」である。
物価上昇を踏まえ、時給1万ウォン時代を切り拓くべきという主張に対し、自営業者や保守陣営は危機感を煽るフレームで阻止した。だが、彼らが見落とした事実がある最低賃金さえ受け取れず生活が崩れた労働者もはや「消費者」にはなれないという点だ。
自分の店で働くアルバイトもまたその線を下回れば、やがて自分の店に足を運ぶ客そのものが消えていくことになる。
生存の圧力の中で人件費を極限まで削減する選択は意図とは無関係に労働を消耗品として扱う慣行を再生産しその帰結は企業や公共機関の非正社員を生み出した問題と同じ方向へと帰着する。
一般に「カルマ(業)」は精神世界の概念として理解されがちだが、本来それは超越的な裁きではなく原因と結果が必然的に結びつく因果の法則に近い。
ある選択が構造を生み、その構造が再び全体へ返ってくる過程。
それこそがカルマである。
IMF通貨危機は韓国経済の相互連結性を示し、2008年リーマン・ショックはその連結網が世界規模へ拡張していることを実感させた。有機体のような経済もまたこの因果の法則から逃れることはできない。他者の労働をコストとしてのみ扱い、その価値を継続的に切り下げる。社会において、消費が枯渇し市場が崩壊するのは道徳的な報復ではなく必然的結果である。
今私たちが直面している共倒れの状況は、罰ではなく、自ら選択した因果の帰結にすぎない。
誠実に働いても生活が維持できない労働市場で絶望した人々は自営業へと流入した。労働者は減り、経営者だけが増えるといういびつな構造の中で美容室、コンビニ、カフェなどが一軒おきに立ち並び互いの身を削り合う残酷な「チキンゲーム」が始まった。
『有機的連結を断ち切った近視眼的思考』
自分の財布から出ていく金だけを惜しみ、その金が循環して再び戻ってくるという経済の有機的流れを無視した代償は残酷だ。
低賃金労働に依存して延命してきたビジネスモデルはやがて消費主体の消失と過剰競争という災厄を招いた。今の危機は私たちが他者の労働価値をどれほど軽視してきたかに対する社会的成績表である。他者の人生を搾取して得た利益が自らの人生を豊かにすることは決してない経済の基盤である労働者の財布を閉ざした利己心は今や自営業者の生存すら脅かしている。
1月1日を除いて退職金を節約したと安堵する公企業や最低賃金を単なるコストと見る人々よ、あなたたちが惜しんだその「金」が我々の社会の購買力をどれほどに蝕んでいるのか、そしてその結果がいかにして自らの首を絞めているのか。
なぜわからないのだろうか。
経済は有機体である。
他者の労働に正当な対価を支払わない社会に未来はない。
今からでも「最低」という言葉に込められた人生の重みを理解すべきである。
時代の変化に伴い社会構造の変化が不可欠であるとしても最終的に目指すべきなのは共生である。
他者の涙を薪にして燃やした火で自分の体を温めようとする愚かさから抜け出せなければ、廃業と没落というブーメランはこれからも私たち全員を打ち続けるだろう。