会社の休憩室で、山本はコーヒーをすすりながら窓の外を眺めていた。何人かの新人社員が集まって昼食をとっているのが見えた。その時、石橋課長がスタスタと近づいてきて隣に座った。
「最近の若い連中は本当に歯がゆいな」
石橋課長の第一声だった。彼はフランスで7年間エンジニアとして働いた後、3年前に戻ってきた人物だった。海外経験談を誇らしげに話すことの多い彼だったが、その日はとりわけ不満に満ちているように見えた。
「さっき、新人社員に海外に行く気はないかと聞いてみたら、みんな気のない反応でね。こんな狭い国で一体何をするつもりなんだか...」
山本は頷きながら聞いていたが、心の中では別の思いを抱いていた。石橋課長の口ぶりにはいつも「外の世界の風」がまとわりついていた。まるで自分が異なる世界を経験した特別な人間であるかのように。
「俺の場合はな」と石橋課長が話し続けた。「フランス語もまったく知らない状態で飛び込んだんだよ」最初の6か月は本当に地獄だった。でもその時間が今の俺を作ったんだ。今の若い連中はなぜそういう挑戦をしたがらないのか理解できないよ」
「やっぱり時代が違うからじゃないでしょうか」山本が慎重に言った。
「時代?何を言ってるんだ。経験はいつだって貴重なものだ。国籍なんて変えるくらい大したことじゃないのに、なんであんなに躊躇うのか...」
「国籍なんて」という言葉に山本はたじろいだ。国籍がそんなに軽いものだろうか?自分にとっては祖母が作ってくれた味噌汁の匂い、町の路地の記憶、大学の同期との思いでがすべてこの土地と繋がっていた。
昼休みが終わり、山本は新人社員の米田と顔を合わせた。
「課長がまた海外に行けって言ってましたけど、どう思いますか?」山本が尋ねた。
米田は少し考えてから笑顔で答えた。
「正直に言うと無理に海外に行かなくてもいいかなと思っています。今だって英語でオンライン会議して、グローバルプロジェクトに参加してるじゃないですか。勿論海外の経験が悪いとは思いませんが、それが唯一の答えじゃないと思います」
彼女の言葉には新しい時代の自由さがにじんでいた。ただ海外に行かないのではなく、海外に行くしかないという固定観念から自由になっているのだ。
翌日、石橋課長が再び休憩室で嘆いていた。
「最近の若者は本当にやる気がない。私がフランスでどんな経験をしたか話してやっても全然興味を示さないんだ 」
山本はしばらくためらった後、口を開いた。
「課長、その経験を共有しているのか、それとも正解を提示しているのか、どちらなんでしょう?」
石橋課長は怪訝そうに山本を見た。
「どういう意味だ?」
「課長の経験はたしかに貴重です。でもそれが全ての人に同じ道を示す根拠にはなりません。
今の若い人たちは選択肢が多様にあることを知っています。
ここにいながらも世界と繋がれるということも」
石橋課長の表情が固まった。
「じゃあ、俺のことが間違っていたというのか?」
「いいえ、課長の選択は課長にとって最善だったと思います。でもそれが他人にとっても最善とは限りません。助言と強要は違うと思います」
その瞬間、休憩室に静寂が流れた。石橋課長はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「そうか。確かにそうだな。俺も気づかないうちに自分の道が正解だと決めつけていたのかもしれん」
数日後、山本は石橋課長が新人社員と会話しているのを目にした。今度は自分の経験を一方的に伝えるのではなく、彼らの意見を聞いていた。
「フランスで働く時こういう困難があったんだけど、君たちならどうやって乗り越えると思う?」
米田が答えた。
「私はオンラインコミュニティを利用して現地の情報を事前に集めると思います。課長の時代と違って今は情報へのアクセスがずっと簡単ですから」
「なるほど、そういう方法もあるのか。俺の時代にはそんなものはなかったからな...」石橋課長は感心した。
その様子を見て山本は微笑んだ。経験は分かち合うことで初めて真の価値を持つということを石橋課長も気づいたようだった。
窓の外から風が吹いてきた。その風はもう誰も拘束しない、自由な風だった。